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日本人文書紀。
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當于此時,季冬之節しはすのをり,風亦烈寒。大中姬所捧鋺水かなまりのみづ,溢而腕かひな凝,不堪寒以將死。皇子顧之驚,則扶起謂之曰:「嗣位ひつぎのみくらゐ重事,不得輙就たやすくつく。是以於今不從。然今群臣之請,事理灼然ことわりいやちこ。何遂謝いなび耶。」爰大中姬命仰歡,則謂群卿曰:「皇子將聽群臣之請。今當上天皇璽符すめらみことのみしるし。」於是群臣大喜,即日捧天皇之璽符,再拜をろがみ上焉。皇子曰:「群卿共為天下請寡人。寡人何敢遂辭。」乃即帝位あまつひつぎしろしめす。是年也,太歲壬子。
二、立后與皇嗣、天皇病癒
二年,春二月丙申朔己酉十四,立忍坂大中姬為皇后きさき。
是日,為皇后定刑部おさかべ。
皇后生,木梨輕皇子きなしのかるのみこ、名形大娘皇女ながたのおほいらつめのひめみこ、境黑彥皇子さかひのくろひこのみこ、穴穗天皇あなほのすめらみこと、輕大娘皇女かるのおほいらつめのひめみこ、八釣白彥皇子やつりのしろひこのみこ、大泊瀨稚武天皇おほはつせわかたけるのすめらみこと、但馬橘大娘皇女たぢまのたちばなのおほいらつめのひめみこ、酒見皇女さかみのひめみこ。
初皇后隨母在家,獨遊苑その中。時闘雞國造つけのくにのみやつこ從傍徑行之,乘馬而蒞籬かき,謂かたり皇后,嘲之曰:「能作園その乎,汝者なびと也?【汝,此云なびと那鼻苔。】」且曰:「壓乞いで,戶母とじ,其蘭あららぎ一莖焉。【壓乞,此云いで異提。戶母,此云とじ覩自。】」皇后則採一根蘭,與於乘馬者,因以問曰:「何用求蘭也耶?」乘馬者對曰:「行山撥蠛まぐなき也。【蠛,此云まぐなき摩愚那岐。】」時皇后結おもひむすび之意裏みこころのうち,乘馬者辭無禮ゐやなき,即謂曰:「首おびと也,余不忘矣。」是後皇后登祚なりいで之年,覓乘馬乞蘭者,而數せめ昔日之罪以欲殺。爰乞蘭者顙ひたひ搶地叩頭曰:「臣之罪,實當萬死しぬるつみ。然當其日,不知貴者たふときひと。」於是皇后赦死刑ころすつみ,貶其姓かばね謂稻置いなき。
三年,春正月辛酉朔一,遣使求良醫よきくすし於新羅しらき。
秋八月,醫至自新羅。則令治天皇病。未經幾時いくばく,病已差也いえぬ。天皇歡之,厚賞醫以歸于國。
允恭帝皇胤
野蒜
蘭,野蒜古名。『和名抄』:「蘭蒚草,阿良良岐。【あららぎ】」刀自【とじ】或云戶母【とじ】,戶主【とぬし】之略也。
奈良縣高市郡明日香村豐浦字寺内 甘樫坐神社
盟神探湯
古傳占法。或手入沸水、沸埿,或置灼斧掌上,見手潰傷與否,以占凶吉、斷是非、辨虛實。味橿丘,『延喜式』神名:「甘樫坐神社。」『皇極紀』:「甘檮岡。」
四年,秋九月辛巳朔己丑九,詔曰:「上古之治いにしへのくにをさむること,人民おほみたから得所,姓名かばねな勿錯たがふ。今朕踐祚あまつひつぎしろしめし,於茲四年矣。上下相爭かみしもあひあらそひ,百姓不安やすからず。或誤失己姓かばね,或故ことさら認高氏たかきうぢ。其不至於治者,蓋由是也。朕雖不賢をさなし,豈非正其錯乎?群臣,議定はかりさだめ奏之!」群臣皆言:「陛下舉失あやまち正枉まがれる,而定氏姓うぢかばね者,臣等冒死。」奏可。
戊申廿八,詔曰:「群卿、百寮及諸國造くにのみやつこ等皆各言,或帝皇之裔みかどのみあなすゑ,或異之天降あまくだれり。然三才顯分みつのみちあらはれわかれ以來,多歷萬歲よろづとせ。是以一氏蕃息うまはる,更為萬姓よろづのかばね,難知其實。故諸氏姓人等沐浴齋戒ゆかはあみきよまはり,各為盟神探湯くかたち。」則於味橿丘あまかしのをか之辭禍戶𥑐ことまがとのさき坐探湯瓮くかへ,而引諸人令赴曰:「得實則全,偽者必害。」【盟神探湯,此云くかたち區訶陀智。或埿ひぢ納釜なべ煮沸,攘手探湯埿。或燒斧をの火色,置于掌たなうら。】於是諸人各著木綿手繈ゆふたすき,而赴釜探湯。則得實者自全,不得實者皆傷。是以故詐者いつはれるもの愕然之豫あらかじめ退無進。自是以後,氏姓自定,更無詐人。
四、討玉田宿禰
五年,秋七月丙子朔己丑十四,地震なゐふる。
先是,命葛城襲津彥かづらきのそつびこ之孫玉田宿禰たまたのすくね,主瑞齒別反正天皇之殯もがり。則當地震夕,遣尾張連吾襲をはりのむらじあそ,察殯宮もがりのみや之消息。時諸人悉聚無闕,唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言:「殯宮大夫かみ玉田宿禰,非見殯所。」則亦遣吾襲於葛城,令視みしむ玉田宿禰。
是日,玉田宿禰方集男女而酒宴うたげす焉。吾襲舉狀,具告玉田宿禰。宿禰則畏有事,以馬一匹授吾襲為禮幣ゐやのまひ,乃密遮さきぎり吾襲,而殺于道路。因以逃隱武內宿禰たけうちのすくね之墓城はか。天皇聞之,喚玉田宿禰。宿禰疑之甲よろひ服襖ころも中而參赴。甲端自衣中出之。天皇分明あきらかに欲知其狀,乃令小墾田采女をはりたのうねめ,賜酒于玉田宿禰。爰采女分明瞻衣中有鎧,而具奏于天皇。天皇設兵將殺。玉田宿禰乃密逃出而匿家。天皇更發卒圍かくみ玉田家,而捕之乃誅。
冬十有一月甲戌朔甲申十一,葬瑞齒別反正天皇于耳原陵みみはらのみさざき。
奈良縣御所市室字宮山 室大墓【宮山】古墳※『帝王編年記』仁德帝七十八年條引一書云:「武內宿禰剿討東夷,還來大和國葛下郡,薨。室破賀墓是也。」
武內宿禰墓
武內宿禰室破賀墓,今宮山古墳。
大阪府堺市北三國丘町 田出井山古墳
反正天皇 百舌鳥耳原北陵
尾形月耕『月耕隨筆』衣通姬
弟姬 衣通郎姬
身光自衣通出。『古事記』作衣通姬,或云輕大郎女。『日本書紀』以弟姬、輕大郎女別為他人。
奈良縣高市郡明日香村小原
大原之里 藤原之第
藤原鎌足生誕之地,傳亦允恭帝置衣通姬之藤原宮。
衣通姬戀天皇歌:「此宵當何夕 妾背子兮將來夕 細根細蟹兮 蜘蛛張網碎動者 今夜殊更映心弦」
天皇聆曲感懷歌:「袖珍細模樣 華美錦紐吾欲解 解紐褪衣裳 雖冀夜夜相共寢 恨限春宵唯一晚」
天皇翫井傍櫻華歌:「花細花艷美 井傍櫻華惹人憐 願如憐此華 早日寵幸然不得 吾所愛兮姬君矣」
大阪府泉佐野市上之鄉 茅渟宮舊蹟碑
衣通郎姬 茅渟宮舊址
衣通姬茅渟歌:「雖欲與君逢 常久相逢不可得 一猶鯨魚取 海濱藻兮無定所 只願偶時得寄岸」
大阪府泉佐野市上之鄉 茅渟宮蹟 衣通郎姬墓
茅渟宮舊蹟 衣通郎姬墓
七年,冬十二月壬戌朔一,讌うたげし于新室にひむろ。天皇親之撫琴,皇后起儛。儛既終而不言禮事ゐやのこと。當時風俗ひと,於宴會うたげ儛者儛終則自對座長くらかみ曰:「奉娘子をみな也。」時天皇謂皇后曰:「何失常禮つねのゐや也?」皇后惶之,復起儛。儛竟まひをはり言:「奉娘子。」天皇即問皇后曰:「所奉娘子者誰也?欲知姓字うぢな。」皇后不獲已やむことをえず而奏言:「妾弟,名弟姬おとひめ焉。」
弟姬容姿絕妙無比かほすぐれることならびなし,其艷色うるはしきいろ徹衣而晃之てれり。是以時人號衣通郎姬そとほしのいらつめ也。天皇之志存于衣通郎姬,故強しひ皇后而令進。皇后知之,不輙たやすく言禮事。爰天皇歡喜,則明日くるつひ遣使者喚弟姬。
時弟姬隨母以在於近江坂田ちかつあふみのさかた。弟姬畏皇后之情,而不參向。又重七喚ななたびめす。猶固辭以不至。於是天皇不悅,而復敕一舍人中臣烏賊津使主なかとみのいかつのおみ曰:「皇后所進之娘子弟姬,喚而不來。汝自往之,召將弟姬以來。必敦賞たまひもの矣。」爰烏賊津使主承うけたまはり命退之,糒かれひ褁裀ころも中到坂田。伏于弟姬庭中言:「天皇命以召之。」弟姬對曰:「豈非懼天皇之命。唯不欲傷皇后之志耳。妾雖身亡みうす,不參赴。」時烏賊津使主對言:「臣既被天皇命,必召率來矣。若不將來,必罪之。故返被極刑しぬるつみ,寧伏庭而死耳。」仍經七日なぬか,伏於庭中。與飲食みづいひ而不飡くらはず,密食懷中之糒。於是弟姬以為:「妾因皇后之嫉ねたみ,既拒天皇命。且亡君之忠臣ただしきひと,是亦妾罪。」則從烏賊津使主而來之。到倭春日やまとのかすが,食于櫟井いちひゐ上。弟姬親賜酒みき于使主,慰なぐさむ其意。
使主即日至京,留弟姬於倭直吾子籠やまとのあたひあごこ之家,復命天皇。天皇大歡之,美烏賊津使主,而敦寵焉。然皇后之色不平みおもへりよくもあらず。是以勿近宮中みやのうち,則別構殿屋との於藤原ふぢはら而居也。
適產大泊瀨雄略天皇之夕,天皇始幸藤原宮ふぢはらのみや。皇后聞之恨曰:「妾初自結髮かみあげ,陪於後宮きさきのみや,既經多年あまたのとし。甚哉いたきかも,天皇也!今妾產之,死生相半しにいきあひなかば。何故,當今夕,必幸藤原!」乃自出之,燒產殿うぶどの而將死。天皇聞之,大驚曰:「朕過也!」因慰喻なぐさめさとし皇后之意焉。
八年,春二月,幸于藤原,密察み衣通郎姬之消息。
是夕,衣通郎姬戀しのひ天皇而獨居ひとりはべり。其不知天皇之臨,而歌曰:
我背子わがせこが 來くべき夕也ゆひなり 細根ささがねの 蜘蛛くもの行おこなひ 今夕著こよひしるしも
天皇聆是歌,則有感情めでたまふみこころ,而歌之曰:
細形ささらがた 錦紐にしきのひもを 解放ときさけて 數多あまたは寢ねずに 唯一夜ただひとよのみ
明旦,天皇見井傍櫻華さくらのはな,而歌之曰:
花細はなぐはし 櫻さくらの愛めで 如愛ことめでば 早はやくは愛めでず 我わが愛めづる子こら
皇后聞之,且大恨也。於是衣通郎姬奏言:「妾常近王宮おほみや,而晝夜相續,欲視陛下之威儀みよそほひ。然皇后則妾之姊也,因妾以恒恨陛下,亦為妾苦。是以冀離王居おほみや而欲遠居,若皇后嫉意少息歟。」天皇則更興造宮室於河內茅渟かふちのちぬ,而衣通郎姬令居。因此以屢遊獦みかり于日根野ひねの。
九年,春二月,幸茅渟宮ちぬのみや。
秋八月,幸いでます茅渟。
冬十月,幸茅渟ちぬ。
十年,春正月,幸茅渟ちぬ。
於是皇后奏言:「妾如毫毛けのすゑばかり,非嫉弟姬。然恐陛下屢幸于茅渟,是百姓之苦。仰願宜除車駕いでまし之數也。」是後希有まれ之幸焉。
十一年,春三月癸卯朔丙午四,幸於茅渟宮。衣通郎姬歌之曰:
常とこしへに 君きみも逢あへやも 鯨魚取いさなとり 海濱藻うみのはまもの 寄よる時時ときときを
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