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又妃,日向髮長媛ひむかのかみながひめ。
生,大草香皇子おほくさかのみこ、幡梭皇女はたびのひめみこ。
三、民竈興繁
四年,春二月己未朔甲子六,詔群臣曰:「朕登高臺たかどの以遠望之,烟氣けぶり不起於域中くぬち。以為,百姓おほたから既貧まづし,而家無炊者いひかしくひと。朕聞:『古聖王之世,人人誦詠德之音ほむるこゑ,家家有康哉歌やすらかなりといふうた。』今朕臨億兆おほたから,於茲三年。頌音不聆,炊烟轉疎うたたおろそか。即知,五穀不登いつつのたなつものみのらず,百姓窮乏きはまる也。邦畿之內うちつくに尚有不給者,況乎畿外諸國とつくにぐに耶!」
三月己丑朔己酉廿一,詔曰:「自今以後,至于三載みとせ,悉除課役えつき,息百姓之苦。」是日始之,黼衣おほみそ、絓屨おほみくつ,不弊盡不更為也。溫飯おほみもの、煖羹おほみあつもの,不酸餒すえくさ不易也。削心約志,以從事乎無為。是以宮垣崩而不造,茅茨壞以不葺。風雨入隙而沾衣おほみそ、被おほみふすま。星辰ほしのひかり漏壞而露床みゆか、蓐みまし。是後,風雨順時,五穀豐穰ゆたか。三稔みとせ之間,百姓富寬とみゆたか,頌德既滿,炊煙亦繁。
七年,夏四月辛未朔一,天皇居臺上,而遠望之。烟氣多起。
是日,語皇后曰:「朕既富矣。豈有愁乎。」皇后對諮:「何謂のたまふ富焉?」天皇曰:「烟氣滿國,百姓自富歟。」皇后且言:「宮垣壞而不得脩をさむ,殿屋破之衣、被露。何謂富乎?」天皇曰:「其天之立君,是為百姓。然則君以百姓為本。是以古聖王者一人飢寒うゑこゆる,顧之責身。今百姓貧之則朕貧也,百姓富之則朕富也。未之有百姓富とみ之君貧矣。」
秋八月己巳朔丁丑九,為大兄去來穗別皇子定壬生部みぶべ。亦為皇后定葛城部かづらきべ。
九月,諸國悉請之曰:「課役並免,既經三年。因此以宮殿朽壞おほとのくちこほれ,府庫已空みくらすでにむなし。今黔首富饒おほみたからとみにぎはひ,而不拾遺。是以里無鰥寡やもをやもめ,家有餘儲あまりのたくはへ。若當此時,非貢稅おほみちから、調みつき,以脩理つくろふ宮室者,懼之,其獲罪于天乎!」然猶忍しのび之不聽也。
十年,冬十月,甫科課役,以構造つくる宮室。於是,百姓之不領うながされず,而扶老攜幼,運材負簣,不問日夜,竭力爭作。是以未經幾時,而宮室悉成。故於今稱聖帝ひじりのみかど也。
高津神社藏
仁徳帝登高臺望炊煙 高津宮藏
帝見炊煙不起,故知黎民貧困,遂詔天下停課役三載。其後復望國中,炊煙四起,遂復課役,民無不服,竭力爭作。謂之聖帝。
奈良縣高市郡明日香村甘樫丘
甘檻山【國望丘】遠望
天皇登高臺者,『古事記』仁德記作:「天皇登高山【國望丘】見四方之國。」亦云:「今科課役,是以百姓之榮,不苦役使。故稱其御世謂聖帝世也。」
(C)波流能由伎 水垣久樣,※傳上町台地北麓上東西橫貫天滿沙堆之天滿川【亦名,大川。】為之。
難波堀江
大阪淀川河川公園太間地區堤防「茨田堤」碑【左】,門真市宮野町堤根神社境內「史跡茨田堤」碑【右】
茨田堤
茨田堤以仁德帝十一年築成,乃文獻見在日本最初治水工事。
※強頸斷間,大阪市旭區千林。※衫子斷間,寝屋川市太間。
強頸斷間 強頸絕間之址碑
築茨田堤,而二處難塞。神誨以強頸、衫子祭河伯則可成。強頸泣悲沒水,衫子生智,雖不死堤成。
奈良市池田町。『大和志』云:「添上郡和珥池,在池田村。一名光台寺池。廣一千五百畝。」
和珥池
和珥池所在未詳。若非難波、河內,蓋『推古紀』大和和珥池。
天皇示玖賀媛歌:「遊魚水底經 臣之少女玖賀媛 孰能代朕妻養哉」速待返歌:「嚴潮怒濤擊 播磨速待不佞臣 巖下落谷底 戰慄惶恐兮頓首 不才吾願妻養之」
菊池容齋『前賢故實』盾人宿禰
前賢故實 砥田宿禰像
盾人宿禰,以射的功,賜砥田宿禰,亦曰的戶田宿禰。
十一年,夏四月戊寅朔甲午十七,詔群臣曰:「今朕視是國者,郊の、澤さは曠遠,而田た、圃はたけ少乏。且河水橫逝,以流末不駃とく。聊逢霖雨ながめ,海潮逆上,而巷里乘船,道路亦埿ひぢ。故群臣共視之,決橫源よこしまなるみなもと而通海,塞逆流以全田宅いへ。」
冬十月,掘宮高津北之郊原のはら,引南水以入西海。因以號其水曰堀江ほりえ。又將防北河之澇こみ,以築茨田堤まむたのつつみ。
是時有兩處之築たえま,而乃壞之難塞。時天皇夢有神,誨之曰:「武藏人強頸むさしのひとこはくび、河內人茨田連衫子かふちのひとまむたむらじころものこ,【衫子,此云ころものこ莒呂母能古。】二人以祭於河伯かはのかみ,必獲塞。」則覓二人而得之,因以禱于河神かはのかみ。爰強頸泣悲之沒しづみ水而死。乃其堤成焉。唯衫子取全匏おふしひさこ兩箇,臨于難塞水。乃取兩箇匏投於水中,請之曰:「河神崇之,以吾為幣まひ。是以今吾來也。必欲得我者,沉是匏而不令泛うかばせ。則吾知真神,親入水中。若不得沉匏者,自知偽神いつはりのかみ。何徒亡吾身?」於是飄風つむじかぜ忽起,引匏沒水。匏轉浪上而不沉,則潝潝汎すむけやくうきただよひ以遠流。是以衫子雖不死,而其堤且成也。是因衫子之幹いさみ,其身非亡耳。故時人號其兩處曰強頸斷間こはくびのたえま、衫子斷間ころものこのたえま。
是歲,新羅しらき人朝貢。則勞つかふ於是役築堤。
十二年,秋七月辛未朔癸酉三,高麗こま國貢鐵盾くろがねのたて、鐵的くろがねのまと。
八月庚子朔己酉十,饗高麗客まらひと於朝みかど。
是日,集群臣及百寮,令射高麗所獻之鐵盾、的。諸人不得射通いとほす的,唯的臣いくはのおみ祖盾人宿禰たたひとのすくね,射鐵的通焉。時高麗客等見之,畏其射之勝巧すぐれ,共起以拜朝みかどをがみ。
明日,美盾人宿禰,而賜名曰的戶田宿禰いくはのとだのすくね。
同日,小泊瀨造をばつせのみやつこ祖宿禰臣すくねのおみ,賜名曰賢遺臣さかしのこりのおみ也。【賢遺,此云さかしのこり左舸之能莒里。】
冬十月,掘大溝おほうなて於山背栗隈縣やましろのくるくまのあがた以潤田。是以其百姓每豐年としう也。
十三年,秋九月,始立茨田屯倉まむたのみやけ。因定舂米部つきしねべ。
冬十月,造和珥池わにのいけ。
是月,築橫野堤よこののつつみ。
十四年,冬十一月,為橋於豬甘津ゐかひのつ。即號其處曰小橋をばし也。
是歲,作大道おほぢ置於京中,自南門直指之,至丹比邑たぢひのむら。又掘大溝於感玖こむく,乃引石河いしかは水,而潤上鈴鹿かみつすずか、下鈴鹿しもつすずか、上豐浦かみつとゆら、下豐浦しもつとゆら,四處郊原,以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓,寬饒之無凶年之患としえぬうれへ。
十六年,秋七月戊寅朔一,天皇以宮人桑田玖賀媛くはたのくがひめ,示近習舍人とねり等曰:「朕欲愛是婦女,苦皇后之妬,不能合。以經多年あまたのとし。何徒棄其盛年さかりなるとし乎?」即歌曰:
水底經みなそこふ 臣少女おみのをとめを 誰養たれやしなはむ
於是播磨國造はりまのくにのみやつこ祖速待はやまち,獨進之歌曰:
嚴潮みかしほ 播磨速待はりまはやまち 巖下いはくだす 畏かしこくとも 吾養あれやしなはむ
即日そのひ,以玖賀媛賜速待。
明日之夕,速待詣于玖賀媛之家。而玖賀媛不和あまなはず。乃強近帷內ねどころ。時玖賀媛曰:「妾之寡婦やもめ以終年。何能為君之妻乎?」於是天皇聞之,欲遂速待之志,以玖賀媛副速待,送遣於桑田。則玖賀媛發病やまひおこり死于道中。故於今有玖賀媛之墓はか也。
十七年,新羅不朝貢みつきたてまつらず。
秋九月,遣的臣祖砥田宿禰とだのすくね、小泊瀨造祖賢遺臣,而問闕貢之事。於是新羅人懼之,乃貢獻。調絹一千四百六十疋むら及種種雜物,并八十艘かはら。
五、天皇、皇后不睦
二十二年,春正月,天皇語皇后磐之媛曰:「納めしいれ八田皇女,將為妃。」時皇后不聽。爰天皇歌以乞於皇后曰:
貴人うまひとの 立たつる言立ことだて 儲弦うさゆづる 絕間繼たゆまつがむに 並ならべてもがも
皇后答歌かへしうた曰:
衣ころもこそ 二重ふたへも良よき 小夜床さよどこを 並ならべむ君きみは 畏かしこきろかも
天皇又歌うたよみ曰:
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