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 秋九月乙酉朔壬寅十八,天皇狩于淡路嶋あはぢのしま。是日,河內飼部うまかひべ等從駕おほみもと執轡おほみまのくち。先是,飼部之黥めさきのきず皆未差。時居嶋伊奘諾神いざなぎのかみ,託祝はふり曰:「不堪血臭矣。」因以卜之うらなふ。兆うらかた云:「惡飼部等黥之氣か。」故自是後,頓絕ひたふる以不黥飼部而止之やむ。  癸卯十九,有如風之聲,呼於大虛おほそら曰:「劍刀太子王つるぎたちのみこ也。」亦呼之曰:「鳥往來羽田とりかよふはた之汝妹なにも者,羽狹はさ丹葬立往はぶりたちいぬ。」【汝妹,此云なにも儺邇毛。】亦曰:「狹名來田蔣津之命さなきたこもつのみこと,羽狹丹に葬立往也。」俄而使者忽來曰:「皇妃黑媛薨かむさり!」天皇大驚之,便命駕おほみま而歸焉。  丙午廿二,自淡路至。
 冬十月甲寅朔甲子十一,葬皇妃。  既而天皇悔之不治神祟かみのたたり而亡皇妃,更求其咎とが。或者曰:「車持君くるまもちのきみ行於筑紫國,而悉校車持部くるまもちべ,兼取充神者かむへのたみ。必是罪矣。」天皇則喚車持君,以推問かむがへとひ之。事既實焉。因以數せめ之曰:「爾雖車持君,縱ほしきまま檢校天子みかど之百姓,罪一也。既分寄于神祇かみ車持部,兼奪取之,罪二也。」則負惡解除あしはらへ、善解除よしはらへ,而出於長渚崎ながすのさき,令祓禊はらへみそかしめ。既而詔之曰:「自今以後,不得掌筑紫之車持部。」乃悉收,以更分之奉於三神宗像。  六年,春正月癸未朔戊子六,立草香幡梭皇女くさかのはたびのひめみこ為皇后きさき。
 辛卯九,始建藏職くらつかさ。因定藏部くらひとべ。 奈良縣櫻井市大字池之內字宮地 稚櫻神社
稚櫻社,傳磐余稚櫻宮跡。『古語拾遺』別稱神功、履中朝作磐余稚櫻朝、後磐余稚櫻。 奈良縣櫻井市吉備 磐余池
有傳即吉備池,然非通說。 福岡縣宗像市田島 宗像大社 邊津宮
筑紫所居三神者,宗像三神也。即市杵島姬、湍津姬、田心姬,分坐邊津、中津、沖津三宮。所謂充神者,即神戶之民。 淡路島全景 今神崎川河口附近
長渚崎 惡解除、善解除,『三代格』延曆廿年五月十四日:「神事有犯,科祓贖罪。善惡二祓,重科一人。條例已繁,輸物亦多。事傷苛細,深損黎元。仍今弛張立例。」 『御陵要覽』:「屢中天皇,百舌鳥耳原南陵。大阪府堺市西區石津ヶ丘。」
履中天皇 百舌鳥耳原陵 『延喜式』諸陵:「百舌鳥耳原南陵。」注:「磐余稚櫻宮御宇履中天皇。在和泉國大鳥郡。兆域東西五町,南北五町。陵戶五烟。」  二月癸丑朔一,喚鯽魚磯別王ふなしわけのおほきみ之女太姬郎姬ふとひめいらつめ、高鶴郎姬たかつるのいらつめ,納於后宮きさきのみや並為嬪みめ。
 於是,二嬪恒歎之曰:「悲哉!吾兄王えのおほきみ何處去耶?」天皇聞其歎,而問之曰:「汝何歎息也?」對曰:「妾兄鷲住王わしすみのおほきみ,為人強力輕捷かろくとし。由是獨馳越八尋屋やひろや而遊行いで,既經多日,不得面言あひかたらふ。故歎耳。」天皇悅其強力ちからこはし以喚之,不參來。亦重かさね使而召,猶不參來。恒居於住吉邑すみのえのむら。自是以後,廢以不求。是讚岐國造さぬきのくにのみやつこ、阿波國腳咋別あはのくにのあしくひわけ,凡二族之始祖也。  三月壬午朔丙申十五,天皇玉體不悆おほみやまひ,水土不調やくさみ。崩于稚櫻宮。【時年七十。】  冬十月己酉朔壬子四,葬百舌鳥耳原陵もずのみみはらのみさざき。
瑞齒別天皇みづはわけのすめらみこと 反正天皇はんぜいてんわう 一、天皇即位與御崩  瑞齒別天皇みづはわけのすめらみこと,去來穗別天皇同母弟いろど也。
 去來穗別履中天皇二年,立為皇太子。  天皇初生于淡路宮あはぢのみや。生而齒如一骨,容姿美麗。於是有井,曰瑞井みづのゐ。則汲之洗太子。時多遲花たぢひ落有于井中,因為太子名也。多遲花者,今虎杖花いたどりのはな也。故稱謂多遲比瑞齒別天皇たぢひのみづはわけのすめらみこと。  六年,春三月,去來穗別履中天皇崩。
 元年,春正月丁丑朔戊寅二,儲君即天皇位。  秋八月甲辰朔己酉六,立大宅臣おほやけのおみ祖木事こごと之女津野媛つのひめ為皇夫人きさき。   生,香火姬皇女かひひめのひめみこ、圓皇女つぶらのひめみこ。
 又納夫人きさき弟弟媛おとひめ。   生,財皇女たからのひめみこ與高部皇子たかべのみこ。  冬十月,都於河內丹比たぢひ。是謂柴籬宮しばかきのみや。
 當是時,風雨順時,五穀成熟いつつのたなつものみのれり。人民富饒とみにぎはひ’,天下太平たひらかなり。是年也,太歲丙午。  六年,春正月甲申朔丙午廿三,天皇崩于正寢おほとの。 日本書紀卷十二 終
兵庫縣南淡路市松帆擽田 產宮神社 井戶 反正天皇瑞井者,今在產宮神社。或云此社即淡路宮。
大阪府松原市上田七丁目 柴籬神社 在丹比松原,傳柴籬宮址。
【久遠の絆】【卷十一】【卷十三】【再臨詔】 日本書紀 卷十三 允恭紀/安康紀 【允恭天皇】【安康天皇】
雄朝津間稚子宿禰天皇をあさつまわくごのすくねのすめらみこと 允恭天皇いんぎょうてんわう 仁德天皇系 皇統譜 仁德帝系皇統,至清寧帝而無子,得弘計、億計以承天日繼,是顯宗、仁賢二帝也。後至武烈帝而復無嗣。終迎應神帝五世孫男大迹王繼位持統,是為繼體帝。
 雄朝津間稚子宿禰天皇をあさつまわくごのすくねのすめらみこと,瑞齒別みづはわけ天皇同母弟いろど也。  天皇自岐嶷きぎよく,至於總角あげまき,仁惠儉下へりくだる。即壯篤病あつきみやまひ,容止みふるまひ不便。  六年,春正月,瑞齒別反正天皇崩。
 爰群卿まへつきみたち議之曰:「方今大鷦鷯おほさざき天皇之子,雄朝津間稚子宿禰皇子與大草香皇子おほくさかのみこ。然雄朝津間稚子宿禰皇子長このかみ之仁孝ひとをめぐみおやのしたがふみち。」即選吉日,跪上天皇之璽みしるし。雄朝津間稚子宿禰皇子謝さり曰:「我不天さきはひなきこと,久離篤疾あつきやまひ,不能步行あるくことあたはず。且我既欲除病,獨非奏言,而密破身治病,猶勿差いゆる。由是先皇仁德責之曰:『汝患病縱ほしきのまま破身,不孝孰甚於茲矣。其長生之,遂不得繼業あまつひつぎしらす。』亦我兄二天皇,愚我而輕之かろみし,群卿所共知。夫天下者大器うつはもの也,帝位者鴻業おほきいこと也。且民之父母,斯則聖賢之職さかしひとひじりのつかさ,豈下愚おろかひと之任たへる乎。更選賢王宜立矣,寡人おのれ弗敢當。」  群臣再拜言:「夫帝位みかどのくらゐ不可以久曠むなしい,天命あまつよさし不可以謙距ゆづりこばむ。今大王留時逆眾,不正號位なくらゐ,臣等恐百姓おほみたから望絕也!願大王雖勞いたはし,猶即天皇位。」雄朝津間稚子宿禰皇子曰:「奉宗廟社稷くにいへ,重事也。寡人われ篤疾,不足以稱かなふ。」猶辭而不聽いなびてゆるしたまはず。於是群臣まへつきみたち皆固請かたくこひ曰:「臣伏計之,大王奉皇祖宗廟みおやのくに,最宜稱。雖天下萬民おほみたから,皆以為宜。願大王聽之!」  元年,冬十有二月,妃忍坂大中姬命おしさかのおほなかつひめのみこと苦群臣之憂吟うれへさまよふ,而親執洗手水おみてみづ,進于皇子前,仍啟之曰:「大王辭而不即位。位空之,既經年月。群臣まへつきみたち、百寮ももつかさたち,愁之不知所為せむすべしらず。願大王從群望,強あながち即帝位。」然皇子不欲聽,而背居不言。於是大中姬命惶かしこまり之不知退而侍之,經四五剋よときいつとき。
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