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【久遠の絆】【卷十三】【卷十五】【再臨詔】
日本書紀 卷十五 清寧紀/顯宗紀/仁賢紀
【清寧天皇】【顯宗天皇】【仁賢天皇】
白髮武廣國押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと 清寧天皇せいねいてんわう
一、星川皇子謀反
白髮武廣國押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと,大泊瀨幼武おほはつせわかたける天皇第三子也。母曰葛城韓媛かづらきのからひめ。
天皇生而白髮しらか,長而愛民。大泊瀨天皇於諸子中,特所靈異くしびにあやしび。
二十二年,立為皇太子ひつぎのみこ。
二十三年,八月,大泊瀨雄略天皇崩かむあがり。
吉備稚媛きびのわかひめ陰謂幼子星川皇子ほしかはのみこ曰:「欲登天下之位,先取大藏之官おほくらのつかさ。」長子磐城皇子いはきのみこ聞母夫人教其幼子之語,曰:「皇太子雖是我弟,安いづく可欺乎?不可為也!」星川皇子不聽,輙隨母夫人ははのおほとじ之意,遂取大藏官,鏁閉さしとぢ外門,式備于難わざはひ,權勢自由いきほひほしきまま,費用官物おほやけのもの。
於是大伴室屋大連おほとものむろやのおほむらじ言於東漢掬直やまとのあやのつかのあたひ曰:「大泊瀨雄略天皇之遺詔のこしたまへるみことのり,今將至矣。宜從遺詔,奉皇太子。」乃發軍士いくさ,圍繞かくみ大藏。自外拒閉,縱火燔殺やきころす。是時,吉備稚媛、磐城皇子異父兄兄君えきみ、城丘前來目きのをかさきのくめ,【闕名。蓋『雄略紀』所云紀岡前來目連きのをかさきのくめのむらじ乎。】隨星川王子而被燔殺焉。
惟河內三野縣主小根かふちのみののあがたぬしをね,慄然振怖,避火逃出,抱草香部吉士漢彥くさかべのきしあやひこ腳,因使祈生於大伴室屋大連曰:「奴縣主小根事星川皇子者,信まこと。而無有背於皇太子。乞降洪恩おほきなるめぐみ,救賜他命。」漢彥乃具為啟於大伴大連,不入刑類ころすつみのつら。小根仍使漢彥啟於大連曰:「大伴大連,我君,降大慈愍めぐみ,促短之命せまれるいのち,既續延長,獲觀日色ひのひかり。」輙以難波來目邑大井戶なにはのくめのむらのおほゐのへ田十町,送於大連。又以田地たどころ與于漢彥,以報其恩。
是月,吉備上道臣きびのかみつみちのおみ等,聞朝作亂,思救其腹所生星川皇子,率師船四十艘,來浮於海。既而聞被燔殺,自海而歸。天皇即遣使,嘖讓せめ於上道臣等,而奪其所領山部やまべ。
冬十月己巳朔壬申四,大伴室屋大連率臣おみ、連むらじ等,奉璽みしるし於皇太子。
菊池容齋『前賢故實』大伴室屋
前賢故實 大伴大連室屋
大阪府羽曳野市輕里
峯ヶ塚古墳 傳星川皇子墓
星川皇子覬覦社稷,取大藏官,遂為大伴室屋所領官軍燔殺。
奈良縣橿原市 東池尻町字御廚子
御廚子神社
傳清寧帝磐余甕栗宮跡
元年,春正月戊戌朔壬子十五,命有司つかさ,設壇場たかみくら於磐余甕栗いはれのみかくり,陟天皇位あまつひつぎしろしめす。遂定宮焉。
尊葛城韓媛為皇太夫人おほきさき。以大伴室屋大連為大連おほむらじ,平群真鳥大臣へぐりのまとりのおほおみ為大臣おほおみ,並如故。臣、連、伴造とものみやつこ等,各依職位つかさくらゐ焉。
冬十月癸巳朔辛丑九,葬大泊瀨雄略天皇于丹比高鷲原陵たぢひのたかわしはらのみささぎ。
于時,隼人はやと晝夜哀號おらび陵側,與食不喫くらはず,七日而死。有司造墓陵北,以禮ゐや葬之。是年也,太歲庚申。
三、尋獲億計、弘計二皇子
二年,春二月,天皇恨無子。乃遣大伴室屋大連於諸國,置白髮部舍人しらかべのとねり、白髮部膳夫しらかべのかしはで、白髮部靫負しらかべのゆけひ。冀垂遺跡のこりのあと,令觀於後のちのよ。
冬十一月,依大嘗おほにへ供奉之料,遣於播磨國はりまのくに司,山部連やまべのむらじ先祖伊與來目部小楯いよのくめべのをだて,於赤石郡縮見屯倉首あかしのこほりのしじみのみやけのおびと 忍海部造細目おしぬみべのみやつこほそめ新室,見市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこ子億計おけ、弘計をけ。畏敬兼抱ゐやまひあはせうだき,思奉為君,奉養甚謹,以私供給。便起柴宮しばのみや,權奉安置,乘驛はゆま馳奏。
天皇愕然驚歎,良以愴懷いたみおもほし曰:「懿哉うるはしきかも,悅哉よろこばしきかも!天垂溥愛おほきなるめぐみ,賜以兩兒!」
是月,使小楯持節しるし將左右舍人,至赤石奉迎。語在弘計天皇紀。
三年,春正月丙辰朔一,小楯等奉億計、弘計,到攝津國つのくに。使臣、連,持節以王青蓋車きみのあをきぬがさのみくるま迎入宮中。
夏四月己酉朔辛卯七,以億計王為皇太子,以弘計王為皇子。
兵庫縣神戶市西區押部谷町木幡 木幡若宮神社 史跡 忍海部造細目屋敷跡碑 細目室跡 木幡若宮神社
清寧帝無嗣,恐絕天津日繼。幸得小楯於縮見屯倉首細目新室,尋獲億計、弘計,故子養之。
奈良縣葛城市忍海
忍海角刺宮跡 鏡池
飯豐皇女於角刺宮與夫初交,遂終不願交於男。其後臨朝秉政,自稱忍海飯豐青尊。
大阪府羽曳野市西浦※『延喜式』諸陵云:「河內坂門原陵。【磐余甕栗宮御宇清寧天皇。在河內國古市郡,兆域東西二町,南北二町,陵戶四烟。】」※『陵墓要覽』云:「清寧天皇,河內坂門原陵。大阪府羽曳野市西浦六丁目。」
清寧天皇 河內坂門原陵
天皇御年,『神皇正統記』作卅九歲崩,『皇代記』作卌二歲崩。
秋七月,飯豐皇女いひどよのひめみこ於角刺宮つのさしのみや,與夫初交まぐはひ。謂人曰:「一知女道をみなのみち,又安可異。終不願交於男。【此曰有夫,未詳也つばひらかならず。】」
九月壬子朔癸丑二,遣臣、連,巡省風俗くにぶり。
冬十月壬午朔乙酉四,詔:「犬、馬、器翫もてあそびもの,不得獻上。」
十一月辛亥朔戊辰十八,宴臣、連於大庭おほには,賜綿わた、帛きぬ。皆任其自取,盡力而出。
是月,海表諸蕃わたのほかのくにぐに,並遣使進調みつきたてまつる。
四年,春正月庚戌朔丙辰七,宴とよのあかり海表諸蕃使者於朝堂みかど,賜物各有差。
夏閏うるふ五月,大酺おほきにさけたまふ五日。
秋八月丁未朔癸丑七,天皇親錄囚徒とらへびと。
是日,蝦夷えみし、隼人並內附まゐしたがふ。
九月丙子朔一,天皇御射殿ゆみばどの,詔百寮もものつかさ及海表使者射。賜物各有差。
五年,春正月甲戌朔己丑十六,天皇崩于宮。時年若干そくばく。
冬十一月庚午朔戊寅九,葬于河內坂門原陵かふちのさかとのはらのみささぎ。
弘計天皇をけのすめらみこと 顯宗天皇けんぞうてんわう
一、弘計、億計皇子流離
弘計天皇をけのすめらみこと,【更名,來目稚子くめのわくご。】大兄去來穗別おほえのいざほわけ天皇孫也,市邊押磐皇子子也。母曰荑媛はえひめ。【荑,此云はえ波曳。譜第かばねついでのふみ曰:「市邊押磐皇子娶蟻臣ありのおみ女荑媛,遂生三男二女。其一曰居夏姬ゐなつひめ。其二曰億計王おけのみこ,更名嶋稚子しまのわくご,更名大石尊おほしのみこと。其三曰弘計王をけのみこ,更名來目稚子。其四曰飯豐女王いひどよのひめみこ,亦名忍海部女王おしぬみべのひめみこ。其五曰橘王たちばなのみこ。」一本あるふみ,以飯豐女王列敘つぎ於億計王之上。蟻臣者,葦田宿禰あしたのすくね子也。】
天皇久居邊裔ほとり,悉知百姓憂苦,恒見枉屈まげくじく,若納四體溝隍みぞ。布德施惠,政令流行まつりごとしきおこなはれ,卹めぐみ貧養孀,天下親附むつびしたがふ。
穴穗安康天皇三年,十月,天皇父市邊押磐皇子及帳內とねり佐伯部仲子さへきべのなかちこ,於蚊屋野かやの為大泊瀨雄略天皇見殺。因埋同穴。於是,天皇與億計王,聞父見射,恐懼皆逃亡自匿。帳內日下部連使主くさかべのむらじおみ,【使主,日下部連之名也。使主,此云おみ於瀰。】與其子吾田彥あたひこ,【吾田彥,使主之子也。】竊奉天皇與億計王,避難於丹波國餘社郡たにはのくにのよざのこほり。使主遂改名字な,曰田疾來たとく。尚恐見誅,從茲遁入播磨國縮見山石室しじみのやまのいはや,而自經死わなきしぬ。
天皇尚不識使主所之。勸兄億計王,向播磨國赤石郡,俱改字曰丹波小子たにはのわらは,就仕於縮見屯倉首。【縮見屯倉首,忍海部造細目也。】吾田彥至此不離,固執臣禮やつこのゐや。
兵庫縣三木市志染町窟屋
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