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菟道野,即山城國宇治郡宇治。
應神帝菟道野上歌:「登野舉目望 今見千葉葛野矣 更見千百足 富足家庭村里者 國之秀兮映眼簾」
奈良縣磯城郡田原本町『大和志』云:「在唐古村,今呼柳田池。」
韓人池 今曰唐古池
譽田天皇ほむたのすめらみこと,足仲彥たらしなかつひこ天皇第四子也。母曰氣長足姬尊おきながたらしひめのみこと。
天皇以皇后討新羅しらき之年,歲次庚辰冬十二月,生於筑紫つくし之蚊田かだ。幼而聰達,玄監深遠,動容進止,聖表有異あやしき焉。
皇太后攝政之三年,立為皇太子ひつぎのみこ。【時年三。】
初天皇在孕,而天神地祇あまつかみくにつかみ授三韓みつのからくに。既產之,宍しし生腕ただむき上,其形如鞆とも,是肖あえ皇太后為雄裝ををしきよそひ之負鞆。【肖,此云あえ阿叡。】故稱其名謂譽田天皇。【上古時,俗號鞆謂ほむた褒武多焉。】
一云,初天皇為太子,行于越國こしのくに,拜祭角鹿笥飯大神つぬがのけひのおほかみ。時大神與太子名相易。故號大神曰去來紗別神いざさわけのかみ,太子名譽田別尊。然則可謂大神本名もとつみな譽田別神,太子元名はじめのみな去來紗別尊。然無所見也,未詳。
攝政六十九年,夏四月,皇太后おほきさき,崩。【時年百歲。】
元年,春正月丁亥朔一,皇太子即位。是年也,太歲庚寅。
二年,春三月庚戌朔壬子三,立仲姬なかつひめ為皇后。
后生,荒田皇女あらたのひめみこ、大鷦鷯天皇おほさざきのすめらみこと、根鳥皇子ねとりのみこ。
先是,天皇以皇后姊高城入姬たかきのいりびめ為妃。
生,額田大中彥皇子ぬかたのおほなかつひこのみこ、大山守皇子おほやまもりのみこ、去來真稚皇子いざのまわかのみこ、大原皇女おほはらのひめみこ、澇來田皇女こむくたのひめみこ。
又妃,皇后弟弟姬おとひめ。
生,阿倍皇女あへのひめみこ、淡路御原皇女あはぢのみはらのひめみこ、紀之菟野皇女きのうののひめみこ。
次妃,和珥臣わにのおみ祖日觸使主ひふれのおみ之女宮主宅媛みやぬしやかひめ。
生,菟道稚郎皇子うぢのわきいらつこのみこ、矢田皇女やたのひめみこ、雌鳥皇女めとりのひめみこ。
次妃,宅媛之弟小甂媛をなべひめ。【小甂,此云をなべ烏儺謎。】
生,菟道稚郎姬皇女うぢのわきいらつめのひめみこ。
次妃,河派仲彥かはまたなかつひこ女弟媛おとひめ。
生,稚野毛二派皇子わかぬけふたまたのみこ。 【派,此云また摩多。】
次妃,櫻井田部連男鉏さくらゐのたべのむらじをさひ之妹絲媛いとひめ。
生,隼總別皇子はやぶさわけのみこ。
次妃,日向泉長媛ひむかのいづみのながひめ。
生,大葉枝皇子おほはえのみこ、小葉枝皇子をはえのみこ。
凡是天皇男女ひこみこひめみこ,并二十王也。根鳥皇子,是大田君おほたのきみ之始祖也。大山守皇子,是土形君ひぢかたのきみ、榛原君はりはらのきみ,凡二族之始祖也。去來真稚皇子,是深河別ふかかはわけ之始祖也。
三年,冬十月辛未朔癸酉三,東蝦夷あづまのえみし悉朝貢。即役蝦夷而作廄坂道うまやさかのみち。
十一月,處處海人あま,訕哤さばめき之不從命。【訕哤,此云さばめく佐麼賣玖。】則遣阿曇連あづみのむらじ祖大濱宿禰おほはまのすくね,平其訕哤。因為海人之宰みこともち,故俗人諺曰:「佐麼阿摩さばあま」者,其是緣也。【佐麼阿摩,即訕哤海人さばあま矣。】
是歲,百濟辰斯王しんしわう立之,失禮ゐやなし於貴國天皇。故遣紀角宿禰きのつののすくね、羽田矢代宿禰はたのやしろのすくね、石川宿禰いしかはのすくね、木菟宿禰つくのすくね,嘖讓其無禮狀。由是,百濟國殺辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿花あくわ為王こにきし而歸。
五年,秋八月庚寅朔壬寅十三,令諸國,定海人及山守部やまもりべ。
冬十月,科伊豆國いづのくに,令造船。長十丈。船既成之,試浮于海,便輕泛疾行かろくうかびとくゆく如馳。故名其船曰枯野からの。【由船輕疾名枯野,是義違焉ことわりたがへり。若謂輕野かるの,後人訛よこなまれる歟。】
六年,春二月,天皇幸近江國あふみのくに。至菟道野うぢの上而歌之曰:
千葉ちばの 葛野かづのを見みれば 百千足ももちだる 家庭やにはも見みゆ 國秀くにのほも見みゆ
七年,秋九月,高麗こま人、百濟人、任那みまな人、新羅人,並來朝。時命武內宿禰たけうちのすくね,領諸韓人からひと等作池。因以名池號韓人池からひとのいけ。
八年,春三月,百濟くだら人來朝。
『百濟記くだらき』云:阿花王立,無禮於貴國。故奪我枕彌多禮とむたれ及峴南けんなむ、支侵ししむ、谷那東韓こくなのとうかん之地。是以遣王子直支せしむとき于天朝みかど,以脩先王さきのこにきし之好也。
二、甘美內宿禰進讒
九年,夏四月,遣武內宿禰於筑紫,以監察百姓おほみたから。
時武內宿禰弟甘美內宿禰うましうちのすくね,欲廢兄,即讒言よこしままをさく于天皇:「武內宿禰常有望天下之情。今聞,在筑紫而密謀之曰:『獨裂筑紫,招三韓令朝したがはしめ於己,遂將有天下。』」於是天皇則遣使,以令殺武內宿禰。
時武內宿禰歎之曰:「吾元無貳心ふたごころ,以忠まこと事君。今何禍わざはひ矣,無罪而死耶?」於是有壹伎直いきのあたひ祖真根子まねこ者,其為人ひととなり能似武內宿禰之形。獨惜武內宿禰無罪而空死むなしくみまからむ,便語武內宿禰曰:「今大臣おほおみ以忠事君,既無黑心きたなきこころ,天下共知。願密避之參赴まゐおもむき于朝,親辨わきため無罪,而後死不晚也。且時人每云:『僕形似大臣。』故今我代大臣而死之,以明大臣之丹心きよきこころ!」則伏劍自死焉。時武內宿禰獨大悲之,竊避筑紫,浮海以從南海みなみのみち迴之,泊於紀水門きのみなと。僅得逮朝,乃辨無罪。
天皇則推問武內宿禰與甘美內宿禰。於是二人各堅執而爭之,是非難決まこといつはりさだめがたし。天皇敕之令請神祇あまつかみくにつかみ探湯。是以武內宿禰與甘美內宿禰,共出于磯城川湄しきのかはのほとり為探湯くかたち。武內宿禰勝之。便執橫刀以毆仆うちたふし甘美內宿禰,遂欲殺矣。天皇敕之令釋,仍賜紀直きのあたひ等之祖也。
櫻神宮 探湯式
探湯,隋書東夷傳倭國條云:「小石置沸湯中,為競者之探。理屈者,即手爛。」
奈良縣橿原市石川町劍池
劍池
應神帝指髮長媛歌:「去來吾君矣 速至野原親摘蒜 為往摘蒜者 吾所親行往之道 芳香馨撲鼻 春華飄香花橘生 今見其下枝 人皆取兮不復存 再見其上枝 鳥居其上枯或散 遂於三栗間 取其中枝者 含苞未放兮 明晴將綻美孃子 去來映榮放光輝」大鷦鷯尊報歌:「清水渟溜兮 河內丹比依網池 不知其池內 沼繩蓴繰延蔓生 堰杙厚築兮 河內若江川俣江 不知其江間 菱莖指天長茂生 今觀吾心者 其愚後覺彌愚也」
大阪市住吉區庭井町
大依羅神社 依網池跡
大鷦鷯尊對髮長媛歌:「道後日向國 古波陀之孃子者 美名若神鳴 久聞震耳豈能料 竟得交枕共相眠」其二:「道後日向國 古波陀之孃子者 汝不拒不爭 還迎吾兮共相寢 實感心誠慕愛情」
十一年,冬十月,作劍池つるぎのいけ、輕池かるのいけ、鹿垣池ししがきのいけ、廄坂池うまやさかのいけ。
是歲,有人奏之曰:「日向國ひむかのくに有孃子をとめ,名髮長媛かみながひめ。即諸縣君牛諸井もろがたのきみうしもろゐ之女也。是國色之秀者かほすぐれたるひと。」天皇悅之,心裏みこころのうち欲覓。
十三年,春三月,天皇遣專使もはらのつかひ,以徵髮長媛。
秋九月中,髮長媛至自日向,便安置於桑津邑くはつのむら。
爰皇子大鷦鷯尊おほさざきのみこと及見髮長媛,感其形之美麗うるはしき,常有戀情。於是天皇知大鷦鷯尊感髮長媛而欲配。是以天皇宴于後宮之日,始喚髮長媛,因以坐於宴席とよのあかりのゐしき。時撝めし大鷦鷯尊,以指髮長媛,乃歌之曰:
去來吾君いざあぎ 野のに蒜摘ひるつみに 蒜摘ひるつみに 我わが行道ゆくみちに 馨かぐはし 花橘はなたちばな
下枝しづえらは 人皆取ひとみなとり 上枝ほつえは 鳥居枯とりゐがらし
三栗みつぐりの 中枝なかつえの 含隱ふほごもり 明あかれる孃子をとめ 去來榮映いざさかばえな
於是大鷦鷯尊蒙御歌,便知得賜髮長媛,而大悅之報歌かへしうた曰:
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